★夢タウン徳島で、健康・介護相談・・・NPOと企業などの協働事業・2013.7.9.13時~16時までの3時間でした。
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★がんが治る時代へ~NHKスペッシャル・運命の遺伝子・・・がん・難病・特異の治療を観て。
2013年7月8日・ 魔法の言葉・~ありがとう~添えて! |
★立花隆氏・思索紀行・「人類はがんを克服できるのか」
★幸せの家・ありがとうの゛ふーせんかつら゛素敵です。夏のカーテンにいかがでしょうか?★夫、麻野新一が、3年前、スキルス胃ガンで死去した。余命3ヶ月~6ヶ月と告知され「人の命は、短いんだな~」と。初めて、抗がん剤を進められた時、抗がん剤は使わないと言っていた麻野は、それでも医師の勧めに、入院して治療を承諾した。その診察時、付き添っていた私が、「今の社会で、ガンで死ぬことは、普通のこと」と、抗がん剤を進める医師に話したことがあった。そして、4か月、抗がん治療を断わって退院を決めた夫に、「奥さんは、ガンで死ぬことは、普通のことと、話されましたよね~」と・・・・・・。ガンの苦しみから救いたいと一生懸命治療について説明している医師に、私の言葉がどんなふうに聴こえたのだろうかと今も心にのこっている。
★麻野は、発症してから6ヶ月ぐらいして、立花隆氏・思索紀行・「人類はがんを克服できるのか」を観た。3回を観て終わった時「これで、ガンのことが良く解った。」と話、録画して大切にしていた。 ★立花隆氏は、最後に、死去する時に、「ありがとう!」と言いたい。人は、幾つもの「命」に支えられ、連環体としての「命」がある。おおいなる「命」の連続体は連環体で支えられている・・・・と話した。立花氏自身、がん治療中ではありますが、がん細胞は、自分自身の新細胞で、人は、長い間に素晴らしい進化し続けその中でつくられた新細胞である。自分の骨破壊細胞もそのガンの新細胞を助け守ると。治療した方と、しない方との「命」の長さについても語られ、数か月の延命の違いを統計的に示していた。死を前にして、難しい選択でもある。人生の質を深く考えることは、自分自身で、いろんな生き方(死にかた)を、ある程度自己決定しておく必要があるように思うが・・・・・。 ★40年前、兄(多田正行)が翻訳した、イギリスのプリーストリーの作品から、兄自身が、短文解釈問題をとり上げていた文面を尊敬する知人から教えてもらったので、紹介します。 ★「現在では人は天寿以前にはもう死なないようになった。 それにもかかわらずやはり、70歳から80歳までの間に死の時期はやってくる。我々は年をとって死ぬ。歳をとる事は我々人類に種としての決まった寿命を与え、その寿命まで生き延びる人の数はますます多くなってゆく・・・。 」2013年7月2日 魔法の言葉 ~ありがとう~添えて! |
★第15回日本褥瘡学会学術集会・7月19日・褥瘡をつくらない取り組みにむついて、学会で報告させて頂きます。~ありがとう!~
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★№21・・東京で「死ぬ」こと・・・・・・。 幸せの家・ありがとう
★死去する前日、「痛くは無いが、何だか力が出ないね~」と、瞳が深くなり綺麗いすぎると思った。そして、最期まで意識がこんなにはっきりしているなんて不思議だった。「由紀夫のことを頼んだよ」と。死の予感がするのだろうか。「由紀夫君は、優しい息子ね」と答えると「うん」と。澄んだ瞳が、ずっと深くなり、息子の幼い時と出会っているのか「良い子だ!」とつぶやくように言う。心で寄り添っている息子を感じ「兄さんは、幸せなんだ」と安堵した。その日は、静かな長い夜だった。
「兄さんは、子供の時、何が得意だったの?」「僕は、騎馬戦だよ。」と「それに、障害物競争もね。」と子供の様にうれしそうに笑った。そして、「神戸に行きたいね~」とも。 ★息子を思い叔母を思い子供の頃を思い・・人の心は、最期まで自由だった。その夜は、兄と遅くまで話した。 ★次の朝、突然、不思議な静けさに包まれた。それは、とても静かで、今まで体験したことの無い静けさだった。清らかな静けさの中、兄は、安らかに眠っていた。ファーと不思議な空気が兄を優しく包み、その瞬間゛兄は、死ぬ゛のだと感じた。もし、宗教を持っていたら、「神さま」が迎えに来た瞬間と感じただろう。とても不思議な初めての経験をした。人生のほとんどを東京で暮らした兄。人の絆ほど不思議なものは無いと・・改めて思った。 2013年6月24日 魔法の言葉 ~ありがとう~添えて! |
★⑲東京で「死ぬこと」・・・生きること。
★2013年6月2日死去した兄、多田正行の葬儀が東京で行われたと兄嫁から連絡があった。★徳島で死去し、親族での葬儀と戒名も頂いた。次の日の火葬は東京から妻と息子が立ち会った。分骨してもらった「のど仏と頸骨」を多田家の墓地に埋葬し、一部は、兄が生前愛した高野山へ。★死去する前の日、「神戸に行きたい」と。神戸には、兄を愛した88歳の叔母がいた。昨夜遅く「正行さんが亡くなったと恭子さんが(妻)連絡してきたが、本当なの・・・・」「徳島に来ていて、急に亡くなったと聞いたが、どうしてなの?」と。そして、「仏さんみたいに優しい子だったのに・・・。私より先死ぬなんて・・・」と、気丈な叔母が泣いていた。
★兄を愛した一人だった。叔母は、亡叔父が父の弟だった。兄の大学3年の時(兄は、学部を突然変更しフランス文学へ。その為、一年進学が遅れていた。)父の一番下の弟が町長選に出場し父と叔父が保証人をしていたが落選し借金を残した。叔父も芦屋の屋敷や経営していた宿も失い、父も会社が倒産し大きな借金を抱えた。過保護で育った兄は、貧困生活など理解できず、大学の送金を叔父が肩代わりしたことで、父と大喧嘩をした。その直後、父は、肺結核となり病院に入院し一家は、突然悲惨な状況となった。姉と私は、夜間の高校へと。卒後、姉は地元の銀行に務め、私は、県立の看護学生と。兄は、その後、5~6年ほどして叔父の会社が負債を抱えた時、2年ほど叔父の会社に勤め会社の再建を手伝ったが、それ以降、徳島に帰らず、音信不通だった。★父親の死去する数日前、初めて連絡をすると、小さなメモとお金を送ってきた。父への初めてのプレゼントだった。兄が去ってから、兄のことを一度も口にしたこともなかった父が、その小さなメモをふところに入れ、時々、取りだしては、気丈な父が泣いていた。兄をとても愛していたのだと・・・・。9歳も年上の兄を余り知らなかった私は、兄の生き方を不思議に思っていたが、父の姿をみて、父の愛した兄を、大切にしたいと父の慰霊に誓った。父の葬儀に、久しぶりに兄と再会したが・・・・父親とそっくりで驚いた。 2013年6月21日 魔法の言葉 ~ありがとう~添えて! |