*昔の嫁と姑・・・でも、今は、良き思い出 ②
*昔のこと、こんなことがありました。
・義母とは、別居生活で、私達家族は、夫の会社近くで住んでいた。その為、時々、鳴門に住む母親を迎え食事を共にしていた。 義母は、料理が得意でいろんなことも教えてくれた。 その日も調理場の椅子に座り私の調理を見ていたが「信子さん、ほうれん草の茎の赤いところは、栄養が一番豊富なの」「捨ててはいけません。食べれるのよ。」と。 いつも捨てていた部位なので、とても驚いたが、確かに栄養は豊富だ。 急いで洗い直し、千切りにして、義母のお皿に盛り付けたが・・・。 「私のお皿に、茎の赤いところを盛り付けるとは、どういうこと!!」と義母は、顔を真っ赤にして立腹した。 「栄養があり、食べられるとのお話に、好きなのかと勘違いしていました。」と謝ると「私は、若い時、嫁いだ義母に捨てたことで叱られ、嫁の私のお皿に盛られ、蔵の裏で泣いた。そして、同じことをあなたに話したら・・・私のお皿に盛るとは!!」と、顔を真っ赤にして立腹した。 「自分が辛かったことは、人にしないのが普通かと思いますが・・・」と言う私に、義母は、暫く無言で、気まずい空気が流れたが・・・「あなたは、やっぱり新人類ね」と義母も機嫌を直し、孫たちと楽しい食事会をした。 嫁ぐとき、母は、義母の言うことは「何でも聞きなさい」と、私に教えたが・・・。 ★2021・12.24 魔法の言葉 ~ありがとう~ を添えて!!77194 |
*夫の遺言を改めて開封し・・・①
*麻野は、胃がんとの診断を受けた後、6ケ月程、誰もに話さず(妻にも・・)また、病院にもかからず過ごしていた。
麻野とは、50年近く連れ添ったが、夫のサラリーマン人生は、無遅刻、無欠勤だった。 退職日に、私に手渡した小さなメモは「忍耐」と几帳面な文字で書かれていた。 メモを見て、驚いた私が「忍耐とは、耐え忍ぶこと」と聴くと、真顔でうなずき、やり切ったと幸せそうな笑顔を見せた。 自由を愛した私には、忍耐を美徳と考えた人生観は一度もなく、とても、驚いた事柄だった。 休暇も取らず、朝は、出勤時間より、一時間も早く出勤し、夜は、毎日、20時も過ぎて帰り、その上、人事課勤務で、賃金闘争などの激しい時期だったこともあり、真夜中までの来客は、毎夜のこと。 私は、接待と夜中の送迎などに明け暮れ、玄関先は、お酒やビール瓶の山だった。酔った方達の中には、時には、暴言や暴力的な来客も訪れる。 子供たちには「お母さんは、とっても強いから安心していてね」と話すと「うん。知ってる。」と子供達の返事に驚いたこともあったが、子供は、よく観察しているのだと・・。 麻野は、戦争で父を失い、母方の祖父が、家族を引き取り暮らしを支えてくれたと話していた。同級生の話では、勉強はトップだったらしい。 進学したいと祖父に頼んだが、祖父に断られたと義母から聴いていた。 その祖父の終末期は、娘を背中におぶって、小さい息子を横に座らせ、看護した。 最後の旅路の支度まで、姑は、嫁の私に任せきりだったし、祖父の死去した日も夫は、会社に出勤していて、夫の妹も義母も、また、その兄妹達も隣の部屋の掘りごたつに入り、祖父の旅路の支度をのぞき見しながら「しっかりした嫁さんやな~」などと小声で話し、祖父に優しい言葉もかけるでなく、何一つ、手伝おうともする人もいなかった。 また、無遅刻、無欠勤を貫いていた夫を尊敬をしていたものの、その日も会 社に出勤し、大切なことへの順番が少し違うかな~と・・・思ったが・・・・。 そして、旅路の支度を嫁に任せっきりにし、ごたつから眺めている義母やその兄弟や姉妹たちをみて、死去した義祖父に゛人生は、幸せだっの`と問いかけた。~ ★2021・12.23*魔法の言>葉~ありがとう~ を添えて!! |